若者の無関心について
昨日の加藤周一氏の話の続きを一つ。
高尾さんがコメントで触れてくださっていましたが、加藤氏は、なぜ今の若者が社会に対し関心を持たないのか、についてパネリストの先生方に問いを投げかけていました。特に、加藤氏が深く関わっている「九条の会」は、発起人の平均年齢が70歳を越えていたらしく、老人会のようなものだと茶化しながら説明されていました。
憲法九条を守る、という平和運動に現代の若者はほとんど関心を向けないことを、安保闘争などで若者が中心となった70年代と比較されていました。加藤氏らが老体にむち打ちながら運動を続けているにもかかわらず、多くの若者は気にとめることすらないわけですから、お嘆きになる気持ちはわかります。これは確かに重要な問題です。
それゆえ、加藤氏が京都・宗教系大学院連合に期待したのは、年寄りと若者をつなげるような活動を展開してほしいということでした。一般社会では、世代間の断絶は明らかですから、もしこのギャップを何らかの形で埋めることができるとすれば、それは宗教的視点の有用性を示すことにもなるでしょう。
これは、加藤氏から我々に託された課題として、今後、教育や研究の具体的な場で受けとめていきたいと思っています。
昨日の設立記念シンポジウムのページを作成しました。写真はクリックすると拡大します。
■京都・宗教系大学院連合 設立記念シンポジウム
http://www.kgurs.jp/symposium.html
■『京都新聞』1月7日、掲載記事
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006010700147&genre=G1&area=K10
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コメント
小原さん、皆さん、こんにちは。
高尾さんのコメント内容に目を通し、少しばかり考えさせられていたところに、今回のような小原さんの記事が示されるに、私としても、コメントをしたい気持ちが高じましたので、させて頂きます。
◇
大学の講義を経て、私は、日本国憲法の草案が、アメリカの関係者であるとはいえ、日本の予てよりの姿を知る人を中心として考案されたことを知りました。
そのこと自体は、日本は敗戦国であり、アメリカは戦勝国であるという事実に基づけば、極々自然でありながら、かつ配慮された対応であると私は判断させられました。
ただ、それだけに、「アメリカの国益」との兼合いを図りつつ、「日本の国益」を模索して来たであろう先人たちの努力には、素直に頭の下がる気持ちがしています。
◇
そして現在、若者の一人としては、社会的に試行錯誤がありながらも、「平和教育」が進められており、その延長線上に、今日の私たちの毎日もあると判断しています。
それが故、私個人としては、「憲法九条を守る、という平和運動」というものに対して、正直な話、ピンと来るものがありません。
戦争において、様々な要因があることは周知されており、私は、それに法律的・宗教的な側面が含まれることを否定する者でもありません。
が、それだけに、「私個人としては、一体何が出来るのか?」という疑問を抱く他はありません。
「平和」を築いて行く上で、一人一人の発起が欠かせないことを否定するわけでもありませんが、今日の世界情勢への認識を前提とするに、「では、どうしろと?」という疑問を抱かざるを得ないわけです。
◇
勿論、私は、「平和」を、どちらかと言えば、切に願っている一人ですが、それを自覚出来るようになっているのは、こうして時間を過ごす機会があるためです。
少し以前の私であれば、とてもではありませんが、「平和」以前に、「崩壊」を、より強く望んでいたでしょう。
要するに、私が言いたいのは、“「平和」「平和」と訴えられるけれども、一体誰のための「平和」なのか?”ということです。
その受益者が、それに当たるわけでしょうが、その対象となろうとする人たちがおり、その対象となる人たちを広げようとする人たちがおり、今日に至る道程があるわけです。
それを考えるに、私個人としては、途方に暮れる他はありません。
◇
以前であれば、「大日本帝国のため」「天皇陛下のため」といった文句を述べることが出来たでしょうが、今日では、果たしてどうでしょうか。
日本に住む、一日本人として、「日本という国」を大切にしたい気持ちは確かにありますが、その気持ちを、社会的に歪められたりしたくはないのです。
ですから、宗教的視点に基づいた「具体的な現実問題への対応」が図られていくことは、私個人としては、大変有意義であると判断していますが、その成果が、社会的に無為に帰されることが無いよう願う他もないのも、今の私の現実です。
事態が好転して行く上で、私としても何かしたい気持ちはありますが、「私一人の力だけで、どうなる」と考えるほど、世界を楽観視してはいないが故、以上のようなことを記させて頂きました。その点、御了承下さい。
投稿 大和 | 2006.01.09 02:28